2022年4月 赤いプリーツスカートの刹那的誘惑がウクライナ紛争を導く

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題名を見て「ヤバイッ」と思わずクリックした皆さん、ご苦労様です。まさか会社のブログにそんな不謹慎な内容を書くわけがありません。これは不謹慎と対極にあるブログ(のはず)です。

遡ること約半世紀前、私が小学1年生の時の話です。お隣、といっても広大な牧場を挟んで約1キロ先にたかゆき君という同級生がいた。彼はいつもクレヨンしんちゃんに出てくるボーちゃんのようにいつも鼻水を垂らしていた。それだけではなく、乾いた鼻水でいつも上唇がガビガビの少年でした。今どき見ないよなぁ、少なくとも東京には。

で、ある日そのガビガビ少年たかゆき君と一緒に学校の校庭で同級生の女の子のスカートをめくってキャッキャッ言いながら走り回っていた。午後の2-3時頃で、高学年はまだ授業中だった。キャッキャッしていたのが我々男子2名だけでなく、その女の子も弾ける様な満面の笑みの中で我々から逃げ回っていた事は半世紀経った今でも明瞭に記憶しているけど、今の時代あらぬ誤解を招くので記憶から消し去ろう。それはさておき、高学年が授業中であったという事は、先生方も当然校舎に居て、暫くすると血相を変えた先生が飛び出してきて私とたかゆき君の二人の耳を引っ張りながら職員室に連れていかれた。「イタイ!」と叫んだかどうかは覚えてないけど、それ位の事だと教師による暴力などとは誰にも想起されない時代であった。職員室に入った後は想像するまでもなくコンコンと説教をされた挙句、廊下に立たされた。その説教もさっぱり心に響かず、「とにかくスカートめくりはダメなんだ」の一点張りで何故怒られているのかも全然分からなかった(教えてくれなかった)。おかしい、その同級生の女の子もあれ程喜んでいたはずなのに。なにもスカートの中に興味があったのではない。そもそもその女の子はその時代にとって普遍的なスカートで、歩く度にヒラヒラと揺れる鮮やかな赤いプリーツタイプだった。そのフリフリが面白くて触りたい、否、正しくはこの手でヒラリとめくりたいだけだったのだ(と、思う)。ヒラヒラが魅力的だから触ると言う自由すらないのか。ああ、もっと欲望に対し自由で刹那的に生きたい。その時以来この出来事は、本質の共通理解が得られない限り欲望に自由に生きようと決めた私の人生にとって大きな里程標となった。そう、トーマス・ホッブスの「リバイアサン」で主張している、人間は生まれつき善良なのではなく、生まれつき自己中心的な快楽主義者である事を実践するかのように。ついでに言うとホッブスはこの著書の中で人の行動を決める動機は、私利私欲と己の快楽によってのみ導かれる故、人類は破滅的な殺戮を繰り返すという運命にあると看破した。がしかし、その殺戮の歴史に終止符を打つには私利私欲に満ちた愚民を束ねるオーソリティー(権威者)の存在が必要だと結論付けてしまい、この結論が彼の業績における後世に渡る汚点となってしまった。オーソリティー自身が私利私欲や自己快楽に満ち溢れた人格だったらどうするんだ。もう既に何人もの権威者が同じ失敗を繰り返し、現在に至ってもロシアによるウクライナへの侵攻がその典型と思われる。
そこで、相手が対等に「自由」な意思を持つ存在であることを認め合うことで社会を作っていくこと、すなわち「自由の相互承認」こそが平和に生きる道であると説いたのがヘーゲルだった。近代民主主義の底流となる原理だ。これで安泰。しかも最近では多様性も叫ばれて「自由の相互承認」が益々進化していったかに思えたが、好事魔多し。今度は、多様性であるが故に物事が決まらなくなくなり、そのもどかしさから分断とオーソリティーへの要求が強くなってしまった。よく街に氾濫する政治家や政党のポスターに見られる怪しいキャッチコピーの「決める政治!」がそれだ。結局リバイアサンへの回帰じゃん。欲望の赴くままに生きても良いって事?
連日流される東欧からのニュースに次の世代への暗黒化を憂いながら、スカートめくりで怒られるなんて平和だったんだなぁ、って思うこの頃なのです。特に赤いプリーツスカートの刹那的色彩の強烈な印象と共に。

2022年5月 HM